R-1ぐらんぷり決勝戦


全組終了後『ほっしゃん。』か『井上マー』だと思ったので、『ほっしゃん。』の優勝は単純に嬉しかったです。
あの歓喜の涙も「お笑い芸人が客に笑い以外のモン(涙)をみせるのは恥ずかしい」と自身が思ってそうな方が流したもんなら、コッチは感動しちゃいますよ、そりゃ。
周囲の芸人の暖かな拍手とか司会の宮迫さんが背中叩いたところとか間寛平さんの「今までよう辛抱したな〜」というお言葉とか「何回も何回も辞めようと思ったけど、続けてたらエエ事あるなと思った」という言葉とか。お馬鹿なんでもらい泣きしちゃったよ、ちくしょう。



以下、個々のネタ感想・順不同。


「やりきる事」の凄さは、最近の『波田陽句』や先日の準決勝の『南野やじ』『末高斗夢』を観てつくづく感じることですが、この日、二位だった『井上マー』のネタも何度も観たものにも関わらず笑ってしまったのは積んできたものを「やり切った」からなんでしょう。


それに反するように『ヒロシ』はいきなりこの場でほとんど露出してないだろう(少なくともワタシは初見)新バージョン出してきたのは、確かにその前向きさは良いか悪いかといえば「良い」のしょうが、ネタ前に呼び込みされた時の観客の歓声・期待とその分の戸惑いを(しかも、初っ端から噛むし)計算し切れなかったのかと不思議でならなかったです。
しかも大事な(ご本人がこの大会をどう捉えているかはわからんけど。大金かかってるし)賞レースで。
いや、「だからこそ」なのだろうか。


最近の芸人さん達、特に一つのスタイルがウケ過ぎた人達が可哀想だなと思うのは、一度、世間に認識されたフォーマットを容易に変えることは出来ない(受け入れられない)という前例をたくさん観てしまってることだと思う。売れている最中でも「今が花」だと決して浮かれることがない。
それを「可哀想」だと思うのか「飽きられる前の対策も考えられるからいい」ととるのかはそれぞれだろうけれど、他のパターンを試行錯誤で探す「必死さ」まで透けてみえてしまうのはたくさんの前例があるからこその弊害だと思う。思い込みが激しいワタシのような受け手だけの感覚かもしれませんが。
そんな風に思っていたせいか、審査員の伊藤四郎さんの言葉がやさしく響きました。
(あと、勝手な意見ですが、あんな風に仁王立ちするよりは「ヒロシです…」の時のように顔を伏せて椅子にでも座って足組んででもいるほうがイイような)


友近』のソーセージのネタは私的には彼女のネタの中では好きなネタなんですが、まぁ、見事にウケない、ウケない。
病んだ目とか「色んな都合で鳥居がくぐれない人」とかソーセージを小学校に送りつけてるとか最後にソーセージを粗雑にビニール袋に入れるとことかギリギリだから、というよりも「ウケようがウケまいが構わない」という「客反応度外視」という開き直った、客席から解離した・もっと言えば上からな対し方だったからではないかと。
「ネタだけをやりたい。それ以外のバラエティは出たくない」との彼女の発言を聞いた事があるんですが、確かにその姿勢はスバラシイとは思いますが、一歩間違えば「客を見下している」と見えてしまう。
地に足の着いていない、客反応度外視に自分達の面白いと思うネタを思うようにやるネタを(ネタにもよりますが)好む人間ですが、この日の客席の反応も含めてちょっと「アレ?」と思いました。
う〜ん、なんだろう2005-02-20 - 昨日の風はどんなのだっけ?で仰られるように、これは他の若手芸人さん達にもいえることなんですが『バッファロー吾郎』や『ケンドーコバヤシ』の位置は目指して到達出来るんじゃない、ってところでしょうか。
散々言われていることですが、お笑いは最後は「人柄」だと思う。彼女がこれからどんな方向に行きたいのかは判りませんが、もう少し追いかけてみたいです。